日本でもっとも有名な文学賞のひとつである芥川龍之介賞、通称・芥川賞。新進作家による純文学の中・短編作品を対象とした賞で、年2回発表されています。
1935年に創設されて以来、約90年、170回を超える歴史を持つ同賞は、数々の話題作やベストセラーを生んできました。ふだんあまり純文学を読まない人でも、芥川賞受賞作についてはその注目度の高さから手にとってみることも多いのではないでしょうか。
今回はそんな芥川賞の歴史のなかで、最年少・最年長の受賞記録を持つ作家、およびその受賞作について紹介したいと思います。
最年少受賞作|『蹴りたい背中』綿矢りさ
芥川賞の最年少受賞記録を持つのは、第130回(2003年下半期)の受賞作である綿矢りさの『蹴りたい背中』です。受賞時の年齢は19歳11か月。同時受賞だった金原ひとみ(受賞作は『蛇にピアス』)は20歳5か月での受賞で、ふたり揃ってそれまでの最年少記録を更新する若さでしたが、誕生日が半年ほど早い綿矢りさが記録保持者となりました。
若い女性作家のダブル受賞はマスメディアでも大きく取りあげられ、両受賞作と選評が掲載された月刊『文藝春秋』2004年3月号は異例の売上を記録。最終的には118万5000部に達し、これは現在でも同誌の発行部数として歴代1位の数字です。
単行本の『蹴りたい背中』も当然のように大ベストセラーとなり、現在までの累計発行部数は150万部以上といわれています。まさに社会現象といっていい出来事でした。
『蹴りたい背中』のあらすじ・感想
『蹴りたい背中』は、高校1年生の初実(ハツ)と、クラスメイトの男の子・にな川の交流を描いた青春小説です。
高校入学から2か月。唯一の友人である中学時代からの同級生・絹代が新しい友人グループを作ってしまい、ハツはクラスで孤立した存在になっています。「さびしさは鳴る」という印象的な書き出しからわかるように、彼女はそのことに孤独を感じていますが、かといって無理に友達を作る気にもなれず、周囲に馴染めないまま日々を過ごしています。
この作品の発表当時は「スクールカースト」という言葉はまだ一般的ではなかったかもしれませんが、『蹴りたい背中』が扱っているのは、まさに学校内での上下関係や序列といったスクールカーストの問題であるといえます。
一方、同じようにクラスで浮いた存在のにな川は、モデルの「オリチャン」の熱狂的なファン。ひたすらオリチャンに夢中の彼は、ハツとは違って、クラスメイトたちにどう思われていようが、まったく意に介しません。
ハツはひょんなことからにな川と交流を持つことになるわけですが、彼女のにな川に対する感情は複雑です。スクールカーストの下層に位置する一見似た者同士のようでありながら、自身の境遇に対する態度が自分とはまったく異なる存在への共感、苛立ち、嫉妬、羨望……。様々に渦巻くハツの思いを作者は丁寧に描いていきます。
『蹴りたい背中』の最大の美点は、ここにあると思います。にな川に向けるハツの眼差しを丁寧に、描き、恋愛とも友情とも異なる名づけようのない心象を的確にすくいあげているのです。そしてそのもっとも象徴的な場面として、「にな川の背中を蹴りたい」というハツの衝動を描写し、印象的なタイトルにまで昇華したのは見事というほかないでしょう。
発表からすでに20年以上が経ちますが、本作で描かれているテーマは、現代の子どもたち・若者たちにとっても切実な問題であるといえると思います。社会現象を巻き起こし、一世を風靡しただけでなく、時代を超える普遍的な青春小説として『蹴りたい背中』は今なお強い輝きを放っています。
最年長受賞作|『abさんご』黒田夏子
芥川賞の最年長受賞記録を持つのは、第148回(2012年下半期)の受賞作である黒田夏子の『abさんご』です。受賞時の年齢は75歳9か月。それまでの最年長記録は、森敦の61歳11か月(第70回・1973年下半期受賞)だったので、じつに39年ぶりに大幅に記録を更新したことになります。
その後、第158回(2017年下半期)芥川賞で、若竹千佐子が63歳で受賞を果たし、史上2番目の高齢受賞となりましたが、黒川夏子の記録がダントツであることに変わりはありません。芥川賞がおもに新進作家の作品を対象にしていることを考えると、75歳9か月という記録は、今後もそう簡単に更新されることはないでしょう。
『abさんご』のあらすじ・感想
『abさんご』がどのような作品か説明するのは、少し難しい部分があります。というのも、この作品は普通の小説とはずいぶん異なる書き方で書かれているからです。その特徴について、プロの書評家の方の記事を引用したいと思います。
①横書き、②漢字を開く/開かないに対する独自のルールに基づくと思われるひらがなの多用、③カタカナの排除、④カッコをはじめとする記号類の排除、⑤人称代名詞の排除、⑥固有名詞の排除、⑦人物を属性や行為で表す呼称、⑧普通名詞の言い換え、といった特徴が表面からざっと拾い上げられる。
(引用元URL:https://allreviews.jp/review/2595)
これらの特徴を持った小説の文章とはいったいどのようなものなのか、それは実際に読んで確認していただくしかありませんが、ほとんどの人がかなり読みにくいと感じることは間違いないでしょう。プロの作家である芥川賞の選考委員でさえ、選評で「苦労した」と記しているくらいです。ただ、描かれている物語自体は意外とシンプルなので、丁寧に文章を拾っていけば最後まで読み通すことは十分可能だと思います。
物語は15の断章から成り立っており、時系列に沿って並んでいないので一見わかりにくいですが、簡単にいえば、一組の親子の回想の物語です。
戦前生まれの主人公は4歳のときに母親を亡くし、5歳のときに戦火を逃れて父親とともに海辺の小さな家に引っ越します。そこから、主人公が40歳をいくつか過ぎ、父親が亡くなるまでのあいだの様々な出来事(家に住み込みの使用人がやってきたり、その使用人が父親と再婚したり、成人した主人公が家を出て行ったり……)が、前述の独特な書法で綴られていきます。
自身で半ば認めているようですが、おそらくほとんどは作者本人の体験に基づいた私小説といっていいでしょう。たったひとりの家族であった父親を失ったあと、父親と歩んできた自らの人生を書き記さずにはいられなかった彼女の切実さ、そしてその表現のためにこの独特な書法が選ばれた必然性に胸を打たれます。父親を亡くしてから本作を書き上げるまでに、30年以上の年月を要した事実にも……。
『abさんご』で何よりもすばらしいのは、やはりそのラストシーンだと思います。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉を丹念に読み込んでいくしかない本作品だからこそ、たどり着いた最後の場面の美しさ、切なさにはひと際輝くものがあります。興味のある方はぜひ挫折せずに最後まで読み通していただきたいと思います。
まとめ
以上、芥川賞最年少・最年長受賞者とその受賞作の紹介でした。どちらの作品も単にそれぞれの記録を保持しているというだけでなく、小説として優れた作品だと思いますので、気になった方はぜひ手にとってみてください。
また、芥川賞そのものについての深く知りたいという方は、下記の作品などを読んでみてもいいかもしれません。
人気サイト「直木賞のすべて」を運営する著者が綴る芥川賞史。
読売新聞文化部記者として芥川賞を見つめつづけてきた著者が、第1回(1935年上半期)から第152回(2014年下半期)までの全選評読破を通じて芥川賞の歴史を解読していく本。
第1回(1935年上半期)から第160回(2018年下半期)まで、84年間の芥川賞受賞作全180作を読むという企画本。